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小学生の頃読んだ、子供向けに書かれた偉人伝の中で、唯一、記憶に強く残っているのが、世阿弥だ。その伝記は、世阿弥が、佐渡に島流しにあい、雪の舞う中で、一人、観客のいない能を舞うというシーンで終わっていた。そのとき、私は、確かに、雪の中で舞う世阿弥を観た。伝統芸能には何の知識も関心もなかったのだが、それほど、すさまじいインパクトがあった。
なぜなら、伝記作家は、世阿弥を見ていないにも関わらず、誰も観客がいないというシーンを描いていたからである。いったい誰が世阿弥の舞を観ていたのか。非常に不思議な感覚を持った。伝記作家は観測問題を伝えたかったわけではあるまいに。
ヘンリ・ミラーの小説で(高校の頃読んだのでタイトルは失念)、主人公の友人二人が、芸術論争をする場面がある。密室で、バイオリニストがバイオリンを弾いている。聴衆はいない。それが芸術かどうか、というテーマである。
世阿弥の最後の舞も、密室のバイオリニストも、どちらも、芸術だ。観測者がいようが、いまいが、芸術だ。それは本質的芸術である。
観測者がいなければ成立しないものは、社会的芸術である。
世の中には、おそらく、本質的職業と、社会的職業とがある。
その仕事が自己表現であり、せざるをえない者と、その仕事をしなくても贅沢な暮らしが保証されれば平気な者が、いる。
プログラマにも、両者がいるような気がする。本質的プログラマと、社会的プログラマと。
夏目漱石は躁鬱(双極性障害)だった、という説を、しばしば耳にする。真偽のほどは知らない。
だが、世の中には、その難易度や質に限らず、一時期に莫大な脳のエネルギーを要する仕事というものがある。それは、あるレベル以上のハイな精神状態でなければできない。
躁は「エネルギーの先行投資」ではないかと思う。会社が、ヒト+モノ+カネの先行投資なしに、新規事業を興せないように。
先行投資したら、マイナスになる。だから漱石も鬱状態を経験しているだろう。自然の摂理だ。当然だ。休むことだ。それで不利益を被るのなら、それは、先行投資できる脳体質を持つ人材を生かせない社会システムに不備がある。
夏目漱石の生きた時代、社会には、能力を生かす、やわらかな環境と土壌があったのだろう。
コンスタントにエネルギーを使えないタイプの人は、社会の流れに合わせようなどと力まない方がいい。
今の日本では、常時、急流くだりを要求され続ける。だが、時を経て、よどみや、せせらぎや、滝が必要とされる時代もある。いずれは海へ還るのだ。
人生の中で「幸福」は、1%あればいいほうだ。
人生の意味たるものは、1滴である。
走り続けると、その1滴を、見落とす。
怠けていると、たどりつけない。
もし、一服したくなったら、それは、走り続けて、幸福を見落としそうになっていませんか?ということを、教えてくれる心の声だ。