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Fragment /2006-08

ゲーム嫌い

パソコンに触れて23年。当初は、イラスト、音楽、文章が作れるのだから、ゲームの仕事をすればいいのに、と、周りからよく言われた。だが、ゲーム開発の世界に足を踏み入れたことはない。
プレーヤーとしても足を踏み入れたことがない。Microsoft MVPとしては、ゲーム愛好家には、ぜひ、Xboxを使ってほしいと願うものの、自分自身はといえば、ゲームをプレイして楽しんだことはない。せいぜい、大昔に、雑誌に載っているゲームのマシン語入力を手伝ったことがある程度で、それも入力を手伝っただけで、プレイして楽しんでいたのは友人たちだ。
私にとってパソコンは、自動化のための手段の1つである。社内のミスをしがちな作業を肩代わりさせたり、家庭の雑務を省力化して休息時間を増やし健康を保てるようにしたり、データを共有/再利用して流通のムダを省き、ユビキタスを実現し、(自分も含めた)人々を暮らし易くするためのものである。
だから、あくまでパソコンは、開発やイラスト作成など、仕事の道具として使っている。手がけるアプリケーションも、クオリティの高い情報を、迅速に広く発信する処理が多い。

PCゲームに限らず、子供の頃から、ゲームが嫌いである。ゲーム嫌いがゲームを作っても、ユーザの喜ぶものにはならない。だから、ゲーム開発の世界とは一線を画しているわけだ。
物心付いた時から、いや付く前から、本人の意思とは無関係にゲームの世界に投げ出され、ムリヤリ人生というゲームに参加させられている気がしている。
普段の生活自体がゲームなのに、そのゲームの中で、またゲームをするといった、鏡の世界のようなことを、なぜしなければならないのか分からない。

仕事には法に基づくルールがあるが、生活にはルールがない。私たちは、ルールのない、ゲームの中で生きている。ゲームに参加しているメンバは、それぞれのルール(常識、価値観)に基づいて生きている。そして、個々のルールは、法では決められていない。
仕事では交渉が成立して100万円で受発注が確定した時、100万円分の仕事をするのは当然で、サービスで自発的に120万円分の仕事をすれば、顧客側は喜び感謝して仕事は完了する。余力があるのなら、と、さらに500万円分の仕事を期待する顧客はいないし、ましてや3000万円、5000万円の仕事を当然のように要求する顧客など、いない。
だが、生活では、ギブとテイクが1対1であるとすべき人もいれば、思いやりや愛から要求の何倍も働くことを善しとする人もいるし、無制限の要求を暗黙の了解とするルールを持つ人もいる。さまざまだ。

なぜ、私が、生活をゲームのように感じるのか、最近ようやく、その理由に気付いた。
私がプライベートで関わってきた、あるいは関わっている人々―――の生活を成立させる基本概念は、「勝ち|負け」、「支配|非支配」であり、人に対しても、グレーゾーンのない「善|悪」を判断基準とするものである。これでは生活がゲームと化すのも無理はない。

生活ゲームの中で生まれ育ち、いまなおゲームの中にいるクセに、ゲームは嫌いで、ニガテである。
私は、人生をゲーム化したくない。勝ち負けなど無関係に目標を目指す努力は、面白くて有意義だ。結果には無関係に、絵を描き詩を書き音を創ることが、楽しい。自分の能力を最大限に生かして仕事をして社会に還元し、それ相応の対価を得て、人を思いやり、思いやられる、非ゲームの人生を、この世に創ることも可能なのではないかと思いたい。
人生の「成功|不成功」を勝ち負けのみで決定したり、過程とは無関係に結果のみ評価するのでは、目標に到達するまでの努力から得られるものを無視してしまうことにならないだろうか。勝ち負けを基準にすると、「勝つ」ことがあらかじめ分かっていなければ、イヤイヤ努力することになるのではないだろうか。一人のひとの中には、好ましい面イヤな面があるけれども、その評価は相対的なものだから、100%良い人悪い人という決めつけるのは、相手に失礼なような気がする。確たる証拠もなしに、相手を故意の悪意を持つ人と決め付けることは、冤罪の一種だと思う。

人生をゲーム化したら、「リアル」を探さなければならず、だが、ゲームの中ではリアルを見つけられないという、堂々巡りに陥ってしまうはずだ。それでは、人生は虚しくなるのではないだろうか。
プライベートで関わっている人たちの多くが、慢性的な退屈感、空虚感を言い募る。相方にいたっては、私が、上手になったところで何の利益にもつながらないギターの練習をコツコツやっていたり、仕事のタネになるかどうか100%確定しているわけではないテーマを嬉々として考えていることが、理解できないらしい。「そんなことをして何になるの?」と言いつつ、一方で、羨ましくもあるようだ。ゲーム以外の生き方をイメージできないのかもしれない。

少しだけ、お人よしかもしれないが、それ以上ではない。

私は、お人よしで、正直だと、よく言われる。それは、自分でも、認めざるをえないところはある。

だが、家族からは、異端者扱いである。つまり、お人よしも度を越していて、正直ではなくバカだと、言われる。それでは人生やっていけないと言われる。これは、ちょっと心外だ。それで、人生をやってきているからだ。
TVや新聞で、人々のために心を砕いた人のニュースが流れて、私が「おー、すげー、こんな凄いこと出来る人いるんだ!たいしたもんだねえ」とか言うことがある。相方は、素直に驚く私が不思議で仕方ないらしい。
また、親は、ボランティアをする人の気持ちが理解できなかったそうだ(あくまで過去形)。私は、そういう疑問を持つこと自体が理解できず、答えに窮した。例えば、友人知人たちと「うどん」を食べに行って、初対面の関わりのない人が同席していたとしても、私のテーブル側に「唐辛子」があれば、何も考えず、唐辛子の容器を渡すだろう。それと同じで、困っている人がいて、自分に助ける余力があれば、動くのは自然ではないのか。そこに、何か、作為的な心理が介在するだろうか。親は、結局、ボランティアで訪問してきた学生に、その質問をぶつけたそうだ。
親の考えのウラには、いくら苦労しても、報われない人生もあるという諦観がある。相方は、それとは違い、自分にとって現世的な利益をもたらさないことはする必要がない、という考えの持ち主のようだ。考えの背景は違えど、一言で言ってしまえば、二人とも、「人間性悪説」なのかもしれない。

何年か前に、病院の受付にドナーカードを見つけ、脳死での臓器移植は、私には少し考えるところがあって、二の足を踏んでいるが(その理由は、個人的な経験に基づくことなので、ここには書けない)、心停止後の角膜なら問題ないと思って、カードを持ち歩いている。視覚障害者には、視覚障害者の文化があるとは思うが、私は、ヴィジュアルの仕事をしている。それもまた、異なる1つの文化である。だから、視覚障害者の文化を否定しているのではなく、単純に、美しく楽しいヴィジュアルの世界に触れる機会を、一人でも多くの人が持てればいいのではないか、と思うのだ。
親と相方は、私のカードに、ナットクしていない。

私の方が、大人になりきれていない、タダの子供なのだろうか。この社会では、良心というものは、絵空事に過ぎないのだろうか。
だが、私の参加しているプロジェクトのコンテンツリーダーは、昨年私が手術予定を相談したとき、自身もプライベートで悲しいことがあった直後だったにも関わらず、作業を前倒しに進めて、工程を変えてくれた。そういう人もいる。
私は、ちょっとだけ、お人よしかもしれないが、それ以上でも、それ以下でもない。ものすごくボランタリー精神にあふれているわけでも、人の艱難辛苦を見て見ぬふりできるわけでもない。どっちつかずみたいだが、人生に必要なのは「バランス感覚」だ。この程度でいいのではないかと思っている。

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