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Fragment /2007-06

 自己意識は脳の中で発生するのではなく,脳の外で発生し,波として脳に到達し,脳に還元され,記録されているのではないか。(((自分)を観測している)自分)を観測している自分)。脳内の物質やパルスで説明できる現象ではないのではないか。
「存在は物質である」という感覚に支配されていると,一個の人体の中ですべて完結するという発想になる。だが,「存在」は波でもある。
それが,おそらく,コンピュータと人の違いである。高度に進化した自己プログラム可能なコンピュータであっても,コンピュータの意識は,その内部でしか生まれない。コンピュータは,(((コンピュータ)を観測している)コンピュータ)を観測しているコンピュータ)を観測して認識し,その認識した結果をデータとして記録することはできない。
脳科学の発達と解明によって,足元の揺らぐ哲学もあれば,揺らがない哲学もある。観測機器の発達と,人の知覚や思索には,必ずしも相関関係があるわけではない。観測しなくても,知ることができるケースもある。
観測機器があったから,存在が存在したわけではない。
 自己意識が「外」で発生する可能性,自己意識が「外」へ拡がる可能性。あるいは重複観測者の空間が重なる可能性。も,考えてみなければ。

技術哲学,哲学技術。
デザイン・エンジニアリング,エンジニアリング・デザイン。
ソフトウエア工学,工学のためのソフトウエア。
哲学のデザイン,デザインの哲学。
いずれもあり。
これからは,「哲学工学」,PT。

我々は,未来のどの事象をスキャンして現象となすかを,選んだつもりになっているにすぎない。

未来に,全く同じ条件で,観測機器を設置して,現在と,通信を行いながら,観測できるだろうか。たとえば,離れた惑星同士の間で。「証明されなければ開発されえない」科学技術の発達が「なければ証明できない」テーマについては,哲学の出番だろう。「哲学」は生きている。

マクタガートのA系列は,カレントノードに似ている。B系列は,インデックス番号で表されるノード。
「先のことは誰にも分らない」という前提に立って論じる,その前提自体を疑うことも必要だ。

我々は,通常,「言葉や映像を使って考えている」,と思いこんでいる。「脳内物質や信号といった波を使って考えている」とは思っていない。
我々は,通常,「XMLデータを走査して処理するプログラムを記述している」と思ってしまう。パーサはツリーを走査し処理する結果を見ている我々は,電気信号としての波を直接扱っていることを忘れている。

経次処理にとらわれがちな人が多いような気がする。盛者必衰の理あり?

遺伝の妙と,まどみちお。ぞうさんの鼻は,かあさんも長いのよ。「詩人」は生きかたであり,詩人を讃える人,詩人を生きる人が増えれば,社会は変わるはずだ。

哲学はオブジェクト指向には向かない。一世代,一個人でかまわない。「継承」は理解者の範囲をすぼめていくだけだ。

オブジェクト指向は,時間の観点から見れば,その概念自体に,パラドクスをはらんでいる。

「思索」に最も近くて最も遠い場で食べていくには,「「哲学」学(=メタ哲学)」を学び,教える人になるべきだろう。逆に,人間を体験するには,早めに塔から外に出る方がいいかもしれない。心身障害や病気や高齢などで生活サポートを必要とするのでない限り,自分の生活費を稼ぎ,自分の食事を自分で作り,掃除洗濯をし,いわゆる最低限の基本的な生活を心がけなければ,社会や生活に生かせる思索はできない(生かす必要はない,という考えであれば,話は別)。

時間認識タイプの長い者は,「一片の花びら」に「世界」を観る。そして,時間認識タイプの標準の人の一部は,そのような人間を評して,「花壇を見ていない,一片の花びらしか見えてない,興味が限定している」と言う。標準の人は花壇を見ているかもしれないが,花壇に世界を見ていない。にもかかわらず,自分の方が世界を見えていると思いこんでいる。これは,Wordで書体や色を変えてチラシを作れる「アマチュア」が,Adobe InDesignで最適のフォントを試行錯誤している「プロ」の様子を見て,まだ書体を探している作業の遅い素人のDTPデザイナーだと誤解するのに似ている。

テクニカルライタが特定技術の記事を執筆する場合と,文章を書ける技術者が記事を書く場合がある。
デザイナーが特定商品を熟知して広告を作る場合と,センスの良い商品開発者がデザインして広告を作る場合がある。
哲学を理解した思想史家やドイツ語翻訳の専門家が先人の哲学を解説する場合と,思索家が自らの哲学を語る場合がある。
前者の方が圧倒的に多い。
単に,現在の大学の学科の名前の付け方が問題なのかもしれないが。
先人の書物を紹介するのは,史学科西洋史哲学専攻とかにして,特定の書物であれば,ドイツ語科哲学専攻,とか,フランス語科哲学専攻,とかにした方が,いいような気がする。

量,数の存在しない「世界|次元|場|オブジェクト|それ以外」が「ある|ない」はずだ。
「時間」と一言で言っても,いろいろな種類の概念があるので,話がややこしくなる。
言葉には限界がある。
これ以上,語彙(記号)が増えたら,哲学を学びたい人間はますます減るだろう。
哲学者にも,言葉以外の表現方法,多様な方法論が必要だ。
XAMLは,その可能性を広げてくれるに違いない。
私はMicrososoft MVPとして、Micrososoft製品には多大なる期待を寄せている。特に、3次元を表現するXAMLを描画できるソフトウェアがこの下半期にも発売される。N次元の図の表現に、XAMLが使えるのではないかと期待している。

Webサイトの企画制作を始めた頃,編集者の部屋(雑誌でいえば,編集後記)にあたるページを設け,Webの新技術情報と,ちょっとしたエッセイを載せていた。そこで,リスが観覧車を回す絵を描いて,時間について取り上げていた。
時間とは,音楽CDのようなものだ。未来はすでにあり,リスナーの「曲を選択して聴く」という行為によって,体験され,現在となり,過去となる。リスナーは,プレイヤーのプログラムによって走査され,クロック周波数にしたがって処理される信号に,計時変化を感じ取る。だが,音楽が,先行して「存在しなかった」わけではなく,体験されても「変化した」わけではない。

イオン濃度で地震を予知する試みがある(PISCO)。
イオン濃度は人には捉えられないが,機器では観測できる。人には捉えられないからといって,イオン濃度の事前変化という現象が存在しないわけではない。
人がPISCOのサイトでイオン濃度を知って,防災対策を講じて変更された世界自体は,すでに存在しているのか?過去を書き換えられないのではなく,人の記憶が上書きされないだけである。これは時間の問題ではない。書物のインクを構成する物質が定着して動き難いだけである。記憶がなくなり,新しい情報で書き換えられたら,我々は異なる過去を認識し,過去は変わったことになってしまうのだ。
存在者は存在ではない。

親が子に与えるべきは,時間と愛情であって,モノとカネではない。モノ,カネのように,その存在が認識しやすく,すぐに所属する社会システムの中で利用できるものを与えると,「認識しやすく,すぐに利用できるもの」しか理解できず,そういったものにしか価値を見いだせない人間を,再生産する。それは,思索家の発生する土壌を潰す。子供から,可能性を詐取する社会がどんどん進行している。与えているように見えて,奪っているのだ。バーチャルお父さん・お母さんという,システムが必要かも。子どもが既に独立した人,子どもの持てない人が,相談に乗るようなシステム。

人はもう少し,行動する前に考えるべきだ。筆者は20数年仕事でパソコンを使っているが,ゲームには首をつっこんでいない。全くの門外漢だ。筆者のように、IT業界の渦中にいてさえ縁遠い生活をすることは可能なのである。それらに無縁だと現代生活は成り立たないというのは勘違いだ。(ちなみにケータイも緊急時や外出時の通話以外には使わない。)
ゲームがいけない,とは言わない。優れたゲームだって,あるだろう。だが、何のために必要なのかを、一度立ち止まって考えてみてから、必要であれば楽しみ使えばいいのであって、一瞬のためらいもなく、慎重に選ぶこともない行動には,疑問を持つ。内容を吟味せず,即時反応を要求するソフトウエアを子供に買い与え「過ぎる」と,「warten」を芯から理解できる子(答えの訪れを待つ能力を持つ子供)は育たないのではないか。ゲームのコンテンツの方向性を作るのは,ベンダではなく,エンドユーザーのニーズだ。ベンダは,社会的な意義がない限り,売れないものは企画しないはずだ。

科学技術の普及活動には,「N世代.com」とでもいおうか,ウラ団塊世代(自らがお金を使って楽しむことよりも,後進育成に重きを置く)の,シルバーやシニアの知恵を伝えるコンテンツが必要な気がする。

10年以上前,地域ポータルを企画制作していたとき,ニートの力を,ポータルサイトの特派員として活用できないかと考えたが,実現できなかった。私の力不足だ。身近な場所での(プロが付き添っての)取材体験(デジタルカメラマンのアシスタント)から,外に出ること,自ら記事を書いてまとめてみること,それがキッカけや気づきになるかもしれないのだが。

私は,誰かの苦しみを肩代わりして軽減することを目的として生きているわけではない。誰かの苦しみに耐える力を強くするお手伝い,あるいは苦しみに立ち向かう人の後方支援ならできることがあるかもしれないけれども。
プライベートで関わる周りの人たちには,私の「sein」をあるがままに把握してもらうことを願う(理解してもらいたい,ではない。異なる脳を持ち異なる事象に触れて育った人と人が理解し合うことは基本的に不可能だ,同じ人類で同じ言葉を使うからといって同じ概念同じ抽象的イメージを同じように扱って伝達し合えるわけではない。ごく稀に,部分的には理解可能な場合があるかもしれないが)。他力本願な人たちからは非難されるが,一生は,一人が一回生きて一生である。物理的には時間にとらわれている。一人の生命時間で,何人もの人生を肩代わりできるような,時間を操作する能力など,私は持ち合わせていないし,自分の人生を消し去って他者の願うまま他者の人生を生きるのは,遺伝子に対する冒とくだろう。

我々の記憶は脳の中で蓄積されており,物質/信号としての値を持つ。死んでも,他者に反映される,波のように。大きなディスクに,書きかえられ続けるように。

山ほどの知識を迅速に蓄積できるのは,大容量記憶媒体を持つことの証明であり,速く答えを提示できるということは,検索プログラムが有能であることの証明だ。
しかし,処理速度よりも,「何に発見されるか」(=何を発見するか,ではない)の方が,重要だ。
大量の知識よりも,一片の智慧。

自分がなぜ思索を続けているのか思い出してみると,幼少期から発明に熱中し,宇宙空間が何で出来ていてどんな力が働くのか不思議で仕方なかったという,生来「知らないことを考え詰めることが好き」というベースはあるにせよ,小学生のときに読んだ本の影響が大きい。とくに,トルストイと,宮澤賢治「春と修羅」,子ども向けに書かれた世阿弥の伝記。世阿弥の,島流しにされて,観客がいない雪の中で舞うシーンに,「観測者のいない芸術も芸術でありうるか」という問題を見た。小学校の図書館にあった「宗教便覧」で,宗教と「宗教心」は全く別物だと気づき,畏怖や芸術への感動といった,特定の「心」を湧き起こす源なるものは何なのかと考え始めた。高1の時ヤスパースを読み,精神の表象と哲学的諸問題は切り離せないことを知った。
知らなかったこと,気付いていなかったこと,それがささいなことでも,すこしずつクリアになっていくのが,単純に,楽しい。考えるのが好きというのは,たぶん,そういうこと。

周りから見ると,日常生活には直接役立たないようなことばかり考えているように思われがちだ。
だがどうして,「日常生活には直接役立たないようなことばかり考えること」が,いちばん「日常生活に直接役に立つ」。
一文も持たない,ヘッセの作品中の主人公シッダールタが,経営者カーマスワーミの面接を受けに行き,どんな能力や技術を持っているのかと尋ねられて,答える。「私は考えることができます。待つことがでいます。断食することができます」そして「書くことができます。」
現代社会の中で,断食はまぁ無理としても,清貧の暮らしに不満やためらいを持たない,という意味としてとらえるなら,「問題意識を持ち解決方法を考えたり企画が立案できること,なかなか成果に結びつかないときでも追い風を辛抱強く待てること,目先の利益の高低に頓着せず後で利益になる仕事を喜んで出来ること」が可能であり,且つ,シッダールタの言う「書くこと=今で言えば標準以上のパソコンリテラシーがあること」それらがあれば,まず,平穏な社会では,生きていくには困らない(平穏ではなく,有事には,考える力よりも,体力の方が重要だと思う)。
哲学や理論物理学や数学など,「考えること」を学ぶ学部に進むほうが,仕事は保証されるかもしれない。企業が,いま,新入社員に求めているのは,問題解決能力だ。

「人生」は,生きることでも,生かされることでも,学ぶことでもない,生きる答えに見出されることではないだろうか。
お金は,価値のやりとりの手段であって,データを紙や金属で表現したものにすぎない。
それ自体は,美しくも醜くもない(デザインは美しいと思うが)。
その既存の共通の価値以外に,自分でも価値を作ってみると人生は面白い。
「成功者」とはリッチな暮らしを実現した人ではなく,自らの意味付けに100%納得して生を終えられる人のことだと思う。

私には,ヘッセ「シッダールタ」のヴァズデーヴァの生が好ましい。人のために直接役立つ仕事を平々凡々とこなし,財に頓着せず,言葉で語りうる知識はないが(ウィトゲンシュタインなら「言葉で語りえないことを知っているからこその智者」だということになるのかも),圧倒的な傾聴能力を持ち,「生きる意味」ではなく「生それ自体」を自分なりに理解し,ごく自然に死に向きあい,納得して,積極的に生を終える。理想の生きかた。

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