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Fragment /2007-07

あくまで,メモ書きの「断片」につき,往々にして,論理の破たんがある。

ポリオミノとXML

ポリオミノ・タイリングでは、「ポリオミノがとりうる有限集合のペアの最初の集合が平面を敷き詰めるならば、最初の集合の番号が増加し、2番目の集合は保留となる。最初の集合が敷き詰めないならば、継続して発展して、両者が交換される」。

この考えかたを、XMLの世界に持ち込めないか。

オブジェクトAに複数のプロパティがあり、オブジェクトBにも複数のプロパティがあるとする。
たとえば、Aさんが宮崎出身、Bさんが愛媛出身、どちらも、「椎茸株式会社勤務」だととする。

現在のXML設計では、人、出身地、勤務先のいずれかを、親ノードとする複数の階層構造にする。処理の目的によって決定するか、あるいは、必要であれば、蓄積しやすい構造にして、XSLT変換なりDOMツリーに変えて処理する。

これを、たとえば、人単位で、Aさんのプロパティは「宮崎出身」「椎茸株式会社勤務」、Bさんのプロパティは、「愛媛出身」「椎茸株式会社勤務」とする。
そして、Aさんを親ノード、プロパティを子ノードとする2階層。Bさんを親ノード、プロパティを子ノードとする2階層。という、いずれも2階層しかない、2種類のツリー構造とする。
そして、AさんのプロパティとBさんのプロパティの値(この場合「椎茸株式会社勤務」)が一致したとき、平面上に描いたツリーの形ではなく、1個だけ繰り上がる。

このアイデアは、何か新しい処理方法に化ける可能性がある。引き続き考えてみよう。

自分自身の観測体験の推測

人が自分自身を観測する体験(たとえば臨死体験)は、不思議なものでも何でもなく、誰にでも起こりうる、単なる物理現象だと考える。

「A」さんに,病気や事故等のアクシデントがあり,「A」さんの脳内に,量子活動(reduction;R)が発生する。
「A」さんの脳の,日常的な意識の実行は一時停止する(ログオフするかのごとく)。

量子活動により,「A」さんから発生した意識が,「A」さんの外に拡大する。
「A」さんから発生した意識を,「A'」とする。
「A'」は,もう一人の「A」さんという存在ではなく,「A」さんの意識の拡がり,「A」さんの視点である。

「A」さんの外に拡大して現われている視点「A'」は,「A」さんを観測している。
その観測結果は,「A」さんの脳に記録される。

「A'」の意識が消える。
「A」さんが,窮地を脱し,脳の,日常的な意識の状態の実行が,再開する(リスタートするかのごとく)。

「A」さんの意識は,自分の脳の記録を走査する。

脳内には,「A'」視点からの観測結果が記録されている。
脳内に記録されているために,「A」さんは,それが自分の観測結果だと認識する。
だが,その観測結果は「A」さんを観測したものである。
ゆえに,「A」さんは,自分を観測している視点の存在を認識する。
自分を観測した結果を,自分の脳内に記録できる観測者は自分以外にありえない(と合理的に判断するので),「『A'』さん」が存在したと解釈する。
よって,Aさんは,自分の心が,自分の外から,自分を見ていたと認識してしまう!

このような認識をもたらす現象の解釈方法は,3つの可能性がある。

(1) 偏在している意識を緊急時に認識する可能性。
(2) 意識が2つに分かれる可能性。
(3) 意識が体外に生起する可能性。
(4) 空間がA=A'となるように,歪む可能性。
(5) 意識が拡がる可能性。

おそらく,(1)か(2)か(3)を考える人が多数派だろう。(4)を考える人も少数だがいるかもしれない。これらは、神秘主義的な捉え方である。

筆者は(5)だと考える。意識が拡がる可能性だ。あくまで,意識は本人から発生し,それが体外に拡がり意識され,その間の情報は脳に(物理的に)記録されるという可能性だ。
脳内で膨大な計算がなされたとき、意識(と呼ばれる何か、量子活動のようなもの)が拡大するのかもしれない。
脳内の変化を、体外で観測できれば、証明できるのだろうが、そういった実験は不可能だろう。

生命が危機的状況にあるとき、同様の現象が発生するのかもしれない。心が弱った人の拡大した意識を他者が意識した状態を、虫の知らせと言うのだとしたら、単なる物理現象をたまたま感知したにすぎず、不思議でも何でもなく(「たまたま」というのは、観測問題にかかわることであって、不思議ではあるが)、誰にでも起こり得ることだ。

「(((((自分自身を観測する)自分自身)が観測者である)と考える自分)が存在する)と認識している」という,問題。

波が100%脳内にとどまるとは限らない。「脳内現象は脳の中でのみ観測されうる」のか?たとえば無線LANであっても,その信号を任意の圏内でとらえるなど,昔は考えられなかったわけで,脳なんて蔽いは頭蓋骨1枚。
ある特定の状況下,たとえば病気や事故などでの極限状態で脳内が生命維持に激しく活動している状態では,脳内の観測結果が脳の外に影響を及ぼすような,状態ベクトルの収縮にも似た現象が発生するのではないか。

量子的な非局所性と同様のことが発生しているのではないか。つまり,脳内の状態と脳の外の状態がスピン1/2の粒子同士のように絡み合っているのである。
となれば,いずれ,その最大範囲は計算されるのではないか。
つまり,脳内現象が脳の外で観測され,その観測結果が脳内に記録されているために,観測者は脳内で観測された現象だという認知の歪みを常識的な前提条件として記憶しており,常識では説明不可能であるために,物理現象を超えるものとして捉えてしまっているのではないか。

実際は,自分自身を観測するという現象(たとえば一般に臨死体験という言葉で表されるような)は,「常識では説明不可能な不思議な現象」なのではなく,「観測者本人の常識の中に,量子力学の知識がないがために不思議だと受け止められているだけで,実際は不思議でも何でもない当たり前の物理現象」なのではないか。

もっとも,これだけは,人を使って実験できないので,実験動物で実験して,脳の外で何らかの物理現象を観測できれば,そして,その現象が量子的な非局所性を帯びていれば,ということになるのだろうが,「川の光(クマネズミ一家が主人公の冒険小説)」のタータもチッチもかわいい!ので,そんなことは考えない方がよいのだろう。

「知らなくても、知る」ことはできる

過去の思索家や哲学者は、現在の脳科学の実績を知らない。だからといって、彼らが、無知の上に思索を重ねたとは「限らない」。
人は、「知識として」知らないことも、「アウェアネスで」知ることができる。

観測機器がなければ本質にたどりつけない、というものでもない。
永遠に一瞬を観る、というのは、「波の収縮」ではないか。

現象に対しての推論を観測して証明することはできるだろうが、観測結果がなければ我々が存在しないわけではない。

コンピュータと観測者

「A」さんから発生した意識,「A'」さんが,「A」さんを観測する。
「A'」さんが「A」さんを観測している様子を見ている意識「B」が存在する。

意識「B」こそ,解き明かす対象である。

コンピュータは,観測問題を,入れ子にできない。

筆者は、ペンローズの計算と意識的思考の立場にある「C」を支持する。(C)は,「脳の適当な物理的活動は意識(アウェアネス)を引き起こすが,この物理的活動を計算によって適切にシミュレートすることはできない」(出典:「心の影-1-」)という立場である。

SE

さいきんは、「考えること」まで、肉体労働化している。脳は疲れないが、身体がバテる。

アウェアネスの暁

我々人類の生きる目的は、遺伝子の戦略を乗り越えることにあるのかもしれない。
コンピュータがAIを飛び越えて、自らを認識する「意識」を獲得することはないが、人には可能性がある。
しかし、それも戦略だとしたら?
観測問題が発生する。

キープはデジタル

朝日新聞の「特派員メモ」に、ペルーのインカ帝国時代の祭りインティライミの観光客に混じって、ゲイツ会長が観覧していたという記事が載っていた。記事には「デジタル世界に君臨する男が、西洋に滅ぼされた文明に何を感じたのか」と書かれている。

インカ文明では(昔、同僚がメキシコレストランのC.I.を手掛けた際に、協力するため、大量のインカ関係の本や資料を読んだ限りでは)、インカでは文字(概念を持った書き言葉)がなく、キープと呼ばれる結び目を作った「ひも」で、情報を伝達し、記録していたという。

文明の基盤がデジタルかアナログかはひとつながりのものであり、設計や実装以外では、デジタルとアナログを分けて考える必要は、ほとんどないといっていい。
キープは、結び目と、結んでいないひもの部分でデータを表現する、つまり、2進法であって、デジタルなのだ。
ゲイツ会長は、2進法の上に発展した文明が滅んだ理由を想い、文明を豊かなまま滅ぼさないようにするために成すべきこと、について考えていたのではないかと、MVPの端くれは想像する。

社会システム上も、ペンローズの「C」の視点は、評価されてしかるべきなのである。
「計算によって適切にシミュレートすることはできない物理的活動」こそが、重要なのだ。

町おこし

物質をPRしての町おこしばかりである。
思索家(引退した哲学者や理論物理学者や数学者や在野の物書き)、および思索家志願の若い人たちを集めて、町の中から、新しい価値観を生み出し、その成果を、町おこしの「特産品」として発信するのも、一案だと思うが。
少なくとも、影響が国内にとどまらない。 世界に、町をPRできる。

安価な住宅さえ手配すれば、静かな町や村は、思索にうってつけだ。
人口1万人の山奥で起業して数年いた経験からいえば、すでにADSLは引かれているし、本は、Amazonで買えるわけで、不便なのは外科手術と、高度医療ぐらいのものだ。

感情の上書き

悲しいこと苦しい記録は、それを上回る楽しい喜ばしいデータで、上書きするしかない。
悲しいこと苦しいことを「一瞬」として記録し、楽しいこと喜ばしいことを「永遠」として上書きしたら、ハッピーになれるだろう。
とどのつまり、時間の超越とは、時間をなくすことや、時間から解放されること、時間を意識から外すことではなく、意志で時間の感じ方捉え方を制御することだ。
脳内の、時間認識のサーボシステムを鍛えること、それに尽きる。

「猫」の問題。

U+Rの立場(ペンローズほか)
|ψ> = ω|不発>|にゃ~> + ζ|爆発>|ばたっ>

Uの立場
|ψ> = ω|にゃ~>|生認識> + ζ|ばたっ>|死認識>

※出典:ペンローズ著「心は量子で語れるか」。爆弾が不発弾で生存していて「にゃ~」と鳴いたり,爆発して「ばたっ」と倒れているのは,シュレディンガーの猫である。ペンローズの本では,爆弾と猫の絵で表現されている。断わっておくが,思考実験であるにせよ,私は,このたとえは残酷で大嫌いだ。(シュレディンガーが香川県に生まれていたら,月見うどんの半熟玉子が割れたか割れないかという,ほのぼのした例になっていただろうに)
※U(ユニタリ発展)の立場で,猫の生死を認識しているのは観測者である。

筆者はU+Rの方が好きだ(好き嫌いで語るべき問題ではないのだが!)。

1) 「認識する状態」と,「認識」は異なる。
状態を観測して,猫の生の状態を「生」死の状態を「死」と認識する,観測者の存在を仮定する。
観測者が状態を観測して初めて,生あるいは死の状態が成り立つならば,観測するためには,観測者自身に死の状態は存在しない。
観測されなければUの立場が成立しないのであれば,死なない観測者は存在しえない。
観測対象には生死があるが,観測者には生死という状態が存在してはならない。生死が時間変化を伴わず「状態」であるならば,系が猫の生存を観測したという量子状態と,猫の死を観測したという量子状態は,同一の観測者が同一時に観測しなけれならず,Uの線形性という特性が否定される。生死が状態ではなく,変化するものであれば,観測者は生と死の状態を経験することとなり,死の状態にあるとき,観測が成立しない。

2) 猫が観測者自身である可能性。
トムとジェリーのように人の言葉を話す猫が,観測者自身であれば,チューリングマシンの停止問題と同様のパラドクスが生じるような気がする。

3) 数学的世界と物質的世界の生成順序。
観測結果は,観測結果を認識しなくても「存在する」が,観測結果を認識しなければ「認識されない」。
観測者が認識しなければ「数」ではないが,認識しない状態は数の存在を否定しない。

ここから先が,哲学の出番だろう。
「異なる認識」が同一時間に重なり合うか。
生死の状態が重なり合うのであれば,それを認識する「存在」とは何か。
重なり合わないのであれば,「認識」とは何か。

観測問題に関心を持った,きっかけ

他のエッセイにも書いたことがあるが,小学生の時,世阿弥の伝記を読んだ。
世阿弥が島流しにされ,誰も観客のいない場所で,舞うシーンで終わっていた。
誰も観客がいないのだから,後世に伝わっているはずがない。
にもかかわらず,伝記の作者は,世阿弥の舞う様子を,文章に定着させている。

「フィクションだから」と言えば,それまでだが。
「何」が世阿弥の舞を観測していたのか。

高校の頃,ヘンリ・ミラーの小説を読んだ。密室のバイオリニストの弾く演奏は,芸術か否かという論争が出てくる。
(断わっておくが,ミラーの小説をエロスの部分でしか捉えていない人は,表現の厚化粧に惑わされて、その奥にあるものを読んでいないのではないか)

観測者のいない芸術は,「芸術」という概念を持つ行為でありうるか。

観測されていない世界は,いかにして,世界として成立しうるのか。

ワカラナイ

常時、手元にメモをおいているが、ひらめいて記録したものも、後で見ると、何を考えていたのか、サッパリ分からないことが、多々ある。
急いで書くので、思考に手が追い付かず、ミミズの這ったような文字になってしまうので、文字さえ読めないことも多々ある(普段の文字は、「人間毛筆わーぷろ」と言われるほどキッチリしているのだが)。

折り紙を何回かに折って、交互に切り目を入れた七夕飾りの絵と、ツリーの図が描いてあり、折る回数n、展開、データ形式→独我論→集合論:行列→オブジェクト指向の矛盾、と走り書きしているのだが、何を考えていたのか、ワカラナイ。なんか、「あ、そうだ!そうに違いない!」と思った記憶はあるのだが。

観測者と宇宙

4段のピラミッドを考える。下の段から,知識,理解,認識,アウェアネス。

「私は有限だ」
「宇宙は有限だ」
「私は有限だ」と私は考える。
「『私は有限だ』と私は考える」と宇宙は考える。
停止問題を説明するには,含まれる主体について考えなければならない。

「私」と「あなた」は考える。
「私」と「あなた」は,並列の関係。
「私が存在している」と『私』は考える。
「私」と『私』つまり一人称は,並列の関係にはない。

私が「考える」
この「考える」という処理を、オブジェクトとしてとらえる。ただ一人の、オブジェクトである。

私「が」考える。
宇宙「が」こうなっている。

宇宙は私を含む。この場合、「が」がキーワードになる。

、、、とメモに書いてあるのだが、いったい何を考えていたんだろう。

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