
Back to Indexあくまで,メモ書きの「断片」につき,往々にして,論理の破たんがある。
「数式で世界を表現する」ペンローズと、「色や形で世界を表現する」エッシャーは、数学者とデザイナーの、究極のコラボレーションである。ペンローズ博士は絵を描くし、エッシャーも科学に関心を持っている。互いに、「表現」に関しては相手の分野のプロではないが、関心を持ち、本質を理解している。
だからこそ、お互いに、インスパイアすることができる。
規模を小さくして、エンジニアとデザイナーのコラボレーションにあてはめても、通じるものがあるような気がする。
新聞記事を読んで、ふと、思ったこと。
ラマヌジャンは独学でモックテータ関数なるものを見出したそうだ。
「数学の天才」とは、数式を発見した人ではなく、数式の側に発見されてしまう能力を持っているのかもしれない。追究はしていても、数式を、論理立てて段階的に考えたりしてはいないんじゃないかな。
我々が散歩していて、ふと美しい景色に出会う。そこで、絵で表現できる人は絵を描くし、音で表現できる人は曲を奏でる。そのように、ふと美しい数式に出会ったので、数式を書き写したのだろう。風景画を描くように、そこにあった数式を書きとめたのかもしれない。
波や光で直接記述すると、音楽や絵になる。音楽や絵は自分で自分を記述していることになる。そのため、他者に対して示す、直接的な「表現」にはならない。解釈というワンクッションを経るので、評価は、受け手の感受性と知識に左右される。
数学は違う。直截である。有無をいわせぬ強靭さがある。
映画「博士の愛した数式」のエンドロールに使われていた詩の一節「infinity and eternity in an hour」と、波束の収縮と、それを完全に記述できる数式が見出されるなら、それらは同じものである。この「infinity and eternity in an hour」は面白い言葉で、時間と空間をorではなくandで接続し、「時空(infinity and eternity)」を、「時間(hour)」という、単位の異なる言葉に代入している。
これは「摩訶止観第五の、夫一心具十方界(山宮允)」であり、「シュレディンガーが梵我一如に共鳴していた(竹内淳)」のも、同じ状態を表している。「シッダールタ(ヘッセ)」にせよ、「方丈記」にせよ、「川の光(松浦寿輝)」にせよ、その中には、波束の収縮が記述されている。
これらの芸術作品の中で、決して時間は、流れていない。
「美しいものも醜いものもどんどん過ぎ去って、でも川の水はいつも新しい(松浦寿輝、川の光)」。
「時間は実在しない、ゴーヴィンダよ、私はそのことをじつにたびたび経験した。時間が実在でないとすれば、世界と永遠、悩みと幸福、悪と善の間に存するように見えるわずかな隔たりも一つの迷いにすぎないのだ(ヘッセ、シッダールタ、高橋健二訳)」
それらの解釈は、物理学と、遊離していない。
「実は、『流れる』時間を用いて考えるようわれわれに求めるものは、そもそも意識の現象でしかないのである。相対性理論によれば、あるのは『静的な4次元時空』だけであり、そこには『流れる』ものは何もないのである。時空はただそこにあって、時間が流れないのは空間が流れないのと同じである(ペンローズ、心の影)」。
言葉の論理を積み上げる哲学は、全体を一度に表現しきることができず、時系列にしたがう世界でなければ観念の送受信が成立しないので、波束の収縮が存在し得るかどうかをいかに証明するかという方法について論じることはできても、波束の収縮そのものを表現することはできない。
マクタガートの解説書を読んだ。水をも漏らさぬ論理だった。だが、前提条件が崩れたら、それ以降は全て崩れてしまう。
それが哲学の弱点だ。
次年度後半から、ヴィジュアル・デザインの仕事を一時縮小しようかと考えている。
ヴィジュアルより技術、技術よりさらに本質的なものを、2~3年学んでから、デザインに生かすことができれば、と思っている。
ヴィジュアル・デザインの意義というのは、1に識別、2に社会のサーボシステム、だ。
「識別」というのは、ID代わりのデザイン。「社会のサーボシステム」というのは、人の飽きる心が社会不安定をもたらすので、視覚聴覚への刺激を生み出し続けること。その刺激を、「エクスペリエンス」という一語で表現したコピーライターは、すごい。
子供のころ、父から、将来は理論物理をやれ、と言われ続けていた。父は、絵を、遊びだと言い、数学と物理学より軽視していた。
当時の父の年齢になって、ようやく、真意が分かり始めた。
父は、芸術そのものを否定していたわけではない。絵や文学のような、受け手の感性によって左右されるものが、直面するであろう壁を知っていたのだ。
社会人経験を経てみると、相手側が情報の入力を拒否していると、どのように努力しても工夫しても伝わらない情報もある、と思い知らされた。相互理解への努力も、ほどほどに割り切らなければ、美しいものにたどりつけないまま、限りある人生は終わってしまうのかもしれない。
ヘッセ「シッダールタ」の一文を引用すれば、「今や自分はまた、昔幼児だったころとおなじように、太陽の下に立っている、自分のものは何もない、自分は何もできない、何の能力もない、何も修得していない、と彼は考えた。なんと奇妙なことだろう!~略~ふたたびはじめから、幼児のところからやりなおさなければならない!」
幼児のところからやりなおそう、と思っている。
いつか、テクノロジとサイエンスとアートの垣根を越えた哲学を深めて、デザインの仕事に還元できればいいな、と思っている。
生活や政治に不満たらたら言いながら、ではあなたの考えはと聞けば、何の意見も持っていない場合がある。いわく、面倒、無関係。いわく、自分が生きている間は大丈夫だし(高齢者の場合)。子孫や他者の立場に、考えがおよんでいない。
自分の本音と表層の思考、自分の目標と、自分の実力。自分の夢と、社会での位置付け。自分と他者。仕事と自分の暮らし。自分の活動と地域社会。自分の一票と日本。自分の努力と地球環境。自分の欲と宇宙の環境。どんどん大きな世界と対比していく。
対象との間が、広がれるにつれ、関連付けて考えられなくなる境界が迫ってくる。その境界は、人によって異なるようだ。目の前の人ですら、遠い別世界のことのように認識される人もいる。
「時間」と「空間」ではなく、「時空」とはよくいったもので、space-timeが少しでも拡大すれば、イメージできなくなるらしい。
そのような人に、対象との関連性を説明することは、非常に難しい。
私自身が、書籍や記事の中で、「文系、理系、芸術系」という分類を使うことがあるが、それは、あくまで、学生時代の選択コースが何であったか、ということだ。コースによって学習カリキュラムの異なる高校が多いので、どの教科の学習に時間を費やしたかを把握できるからだ。
ただし、選択コースが、各人の適性や可能性を必ずしも表していると考えているわけではない。今はどのような学習指導要綱になっているのか知らないが、私の学生時代をふりかえると、倫理は、哲学者の名前や書籍名を暗記するものであって、「思索」とは何の関係もなかったし、現代国語と英文法については、論理的思考力で点数をとるものであり、国語や英語ができるから文系、ということにはならないと思った。
むかし、私が困ったのは、あまりにも教科が多く、1時間2時間単位で、思考を切り替えなければならないことだった。関心を持ったテーマがあっても、掘り下げて学べない。学生時代、勉強は大嫌いだった。学習塾へ行ったことがないからだろうか。
プログラム言語でも、何かひとつ習得すると、他の言語は比較的容易に自習できるようだ。
学校でも、教科が多すぎると、かえって中途半端になるような気がする。高校生までは、英国数の3教科と、理科か社会からの選択科目を何か1つ、の4教科だけ、じっくり教える方が、その上に自分で知識を積み重ねやすいんじゃないかな。
仕事に関する適性をしいて分けるなら、人間好き(共感、折衝能力が優位)、計算好き(記憶、処理、再生、管理能力が優位)、探究好き(長期集中力と創造力優位)、といったところだろうか。
母が病気がちで、父は昼間会社に行っていから、物心付いた頃から、自分でできることは、自分でしてきた。
というか、心身の病気やハンデキャップをかかえているのでない限り、自分で水を汲んで飲めるようになった時点から、自分の生活の面倒を自分で見るのは、生物として当たり前のことではないのか。
幼児の私でさえ昼食は自分でまかなっていたのに、それすらできない健康な大人が多数いるらしいことを知って、ひどく驚いている。この世界は、ナゾが多い。