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学校教育と実務の間/2005年8月9日

学生時代、わたしは数学が、ひどく苦手だった。成績とは関係なく、単純に、苦手だった。厳密に言えば、学校で学ぶ数学が大嫌いだった。
中学、高校とも、数学の教師は、皆良い先生ばかりで、熱心で、教え方も丁寧で、人格者として、学生たちから慕われていた。よく、先生が嫌いであるために教科も嫌いになるという事例があるが、先生は良い人たちだった。

では、なぜ、数学嫌いだったのか。
授業の進め方や速度、平たく言えば、指導要綱についていけなかったからである。

ついていけなかったのには、理由がある。
学校の授業では、1つの問題を出されたとき、正解を1つ出せれば、すぐに次の問題に移る。
教科書や参考書にも、解き方の回答例が1つだけ、載っている。その答えを導き出せれば、それでよい。
ところが、わたしは、それがなぜ正解だということになるのか、他にもっとユニークな解き方はないのか、と考え始めてしまう。そんなことを考えている間に、周りは、サッサと先に進んでしまうのだ。
その結果、気付いたときには、周りとの間に、ひどく差が開いていて、慌ててその差を詰めなければならなくなる。そうすると、問題と回答をひもづけて暗記するだけになってしまい、さらに数学嫌いが加速する。悪循環である。

要領が悪い、といえばそれまでだが、実は、これは要領だけで片付く問題ではない。

わたしは、「学校で学ぶ数学」が苦手だったけれども、「数学的なものの考え方」は得意で「数学」そのものは魅力的な学問だと思っている。
日本の大学を出て数学者になるには、どちらもできる必要があるが、一般人に必要なのは、前者よりも、後者であるような気がする。
「数学的なものの考え方」の方が、重要ではないだろうか。

もちろん、仕事に必要な最低限の計算などはできたほうがいい。
だが、一般人に必要なのは、数式の解き方を暗記することではなく、問題に対する良い解答例を憶えることでもなく、ましてや良い点をとるために、問題と回答のコツをつかむことでもない。
必要なのは、見たことも聞いたこともない概念をイメージする能力、1つの問題をさまざまな角度から徹底して考え抜く能力、1つの方法にとらわれず他の方法を考える能力だと思う。学校で数学を学ぶと、数学の能力とは、計算能力であったり、与えられた命題を、テスト時間内に1秒でも速く解く能力であったりすると思い込んでしまうが、それらは数学の本質ではないだろう。
数学とは、この世界を構成する、新しい概念を、数式という手段を用いて提示する学問ではないだろうか。
哲学は世界を表現し、数学は世界を証明する。哲学と数学は、出力形式が異なるだけで、源は同じはずだ。
この世界は、美しい。よって、それを証明する数学もまた、美しい。
生きていく意味を問う上でも、あるいは実務に応用する意味でも、一般人には「数学的なものの考え方」が必要だと思う。

ゆとり教育とは、早く正解を導く訓練を課して、授業を駆け足で進め、休日を作ることではないはずだ。
1つの問題に対して、他の解き方を考えるクセを身に付けたり、長時間集中して考える姿勢を身に付けられるように、じっくり取り組むための時間的な余裕と、心の余裕を、教師も生徒も持てるようにすることではないかと思うのだが...。

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