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ある日、身内の通院に付き添った。待っている間、待合に置いてある雑誌をすべて読んでしまい、さて他に何か読むものはないか、地図帳でも持ってくればよかったと視線をさまよわせていたら、掲示板に貼ってある雑誌記事のコピーが目に付いた。
すごい見出し。
「牛を水飲み場に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない。」
ハタと手を打った!なるほど、そうだ。そこで、わたしなりに、考えてみた。
学校では、友だちにも、知人にも、家族にも、親族にも、そして他者にも、「困っている人がいたら助ける」ことが、善だと学んだ。学んだ、というか、そう教え込まれてきた。
「相手の立場に立つ」ことも重要だと、学んだ。だから、それを実践して生きてきた。
困っている人がいたら、「もし、自分が相手の立場だったら、どうしてほしいだろうか?」と想像し、声をかけ、行動する。それが、人としてあるべき姿だと、そう教え込まれてきた。だから、それを実践して生きてきた。
だが、自分は、相手と全く同じ生き物ではない。同じ人間だから、ある程度までは、「相手の立場に立つ」ことはできる。気持ちを想像することもできる。共感もできる。
だが、限界がある。
自分は、相手と同じ遺伝子を持っていない。相手と同じ環境で生育してきてもいない。
学校教育は、前提条件無視の、精神主義である。やればできる、考えれば分かる、想像すれば100%共感できる、と教え込む。
「限界がある」ことを教えない。
喉が渇いているのに水が飲めないと、とても辛い。
ここに水を飲みたくても、水飲み場まで行くのが怖い牛がいる。
水飲み場は、とても、遠い。歩いていくのは、とても、辛い場所にある。道中に、暗くて、怖い、森がある。
牛は、いつも、亀に、「水が飲みたいなあ。誰か、水飲み場まで連れて行ってくれたら、水が飲めるのに」と、ぼやいている。亀はいつも、その、嘆きを聞き、相槌をうっている。
だから、亀は、「もし、自分が、水を飲みたくても、水飲み場まで行くのが怖い牛だったら、どうしてほしいだろうか?」と考える。
水飲み場まで、連れて行ってほしいのではないか。
そう思って、牛の速度でなんぞ歩けないのに、励まして、必死で走って、自分の時間を使って、連れて行く。
水飲み場に着くと、牛は、喜んで、「いやぁ、助かった」と言う。
亀は、走り続けた疲れも、その一言で帳消しになり、「よかった!これで牛も水が飲める!」と、喜ぶだろう。
これが、学校教育が伝える、エンディングである。
しかし、ここで、牛の逆襲が、始まるのだ。
水飲み場まで行くのが怖かったが、なんとか、たどりついた。
しかし、水を飲むのは、もっと怖い。
飲みたい水が目の前にあるのに、飲めない。
水が目の前になかったときよりも、もっと、辛い。
「こんなところに連れてきたのは誰だ!?亀じゃないか!」
だって、牛は、水を飲みたいと、言っていたのでは?
「牛は、水が飲みたいと言ったのは、ぼやいただけだ。聞いてくれるだけで、よかったんだ。亀に、水飲み場まで連れて行ってくれと、頼んではいない。何ていうことをしてくれたんだ。亀は、冷たいやつだ。」
「でも、あのまま水を飲まないと、死んでしまうよ?」と、亀は言う。
「そんなことはない。いつか足元に、あふれんばかりの泉が湧くかもしれない」
水飲み場での逆襲は、延々と続き、それを聞き続けた亀は、長く歩き続けた疲れも手伝って、甲羅に頭を隠してしまった。
牛は「歩くのが遅いだけでなく、なんと体力のない、仕方のないやつだ。そして、こんなに辛い牛の話を聞かずに、甲羅に隠れるなんて、ひどいやつだ」と、亀を仰向けに転がしてしまった。
そして、いよいよ乾きに耐えかねたとき、牛は、水を飲み始めた。
亀は元気になっただろうか。
「喉が渇いているのに、水を飲むのが怖い」という状況を、事前に、亀は、想像し、共感できるだろうか。
ひょっとしたら飲めるかもしれないし、飲めないかもしれない。
水飲み場に、行ってみなければ分からない。
でも、行かなければ、いつまで経っても水は飲めない。
そうすると、答えは1つしかない、誰しも、そう考えるだろう。
ヒトの共感能力には、「限界がある」のだ。
だからこそ、言葉での明確なコミュニケーションが必要なのだが、自分の気持ちさえ分からず制御できない牛から、意志を聞き出すのは容易ではない。
パーソナリティが違えば、想像する内面も、結末も、全く異なるものになる。
この牛のような人たちも、亀のような人たちも、そして、それを自分には無関係だと傍観する人たちも、行動はせずに口出しや批評ばかりする人たちも、同じ社会の中に生きており、協力関係を築き、共存していかなければならない。その方法を、わたしたちは、考え、学ばなければならない。
とはいえ、「いちばん、かわいそうなのは、牛。いちばん辛いのは、牛」だから、亀は牛を助けるために努力して当然だ、というのが、最近の社会の風潮である。「亀だって、辛いはず。牛と亀、どっちが辛いかなんて、誰にも分からない」と言う声は、かき消されてしまう。亀が甲羅をひっくり返されて死んでしまっても、「亀は、死ぬほど努力したから偉い」ということになってしまう。
果たして、そうだろうか。
牛がなぜ自分の力で水を飲めないのかを研究し、自ら動けるようにする方法を考えて提案することこそ、社会の役割ではないのか。自分たちとは無関係な亀に対して、努力と犠牲の正当性を主張し過ぎてはいないだろうか。
亀も、牛も、ひとつの命である。牛の命が亀の命より重いなんて、誰が決められるというのだろう。
亀は、助けるべきであったのか、あるいは助けない方がよかったのか。
このコーナの駄文、じつは、上に掲げている日付に書いたものではない。これまで時間のあるときに、ひょこひょこ書いてあったものを、このページの雛形の中にコピペして、日付を変えてアップロードしているだけである。いわば、駄文の、在庫処分。
「XML」コーナの方に、何か新しいネタで書きたいのだが、まだ、完全復調には至らず、仕事以外のことは、できるだけサボっている。