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負の感情 / 2006年3月14日

生活や仕事に困っておらず、対人関係も良好。だが、私にとって、この社会は複雑で難しい。
まぁ、誰でもそうだろうけど、人の言動は不可解だ。

「孤独感」は分かるが、生来一人暮らしが長いこともあり、一人で静かにしている方が自然で居心地がいい。「淋しい」という感情は分からない。共同生活者はいるが、私は自営、相方はフリーで、年中無休。お互い各々の作業場で仕事に追われている。よく、灯りの点いていない部屋に帰るのが淋しいという言葉を耳にするが、私には、分からない。逆に、賑やかな方が苦手だ。リラックスできる生活環境というのは、人それぞれである。まっ、それぞれ、皆、それぞれにラクに生きられる環境を作れるといいよね、ということ。
人類愛や敬愛や友愛は理解できる。が、「嫉妬」という感情が分からないので、ファジーな恋愛感情は、別世界の絵空事。
理不尽な相手の言動に対して「どうすれば、分かってくれるのか!」とイラつくことは多々あるけれど、「憎しみ」や「恨み」に至らない。「なぜ?」という気持ちだけが溢れ出て、頭の中は疑問符に埋め尽くされるのだ。
当然「相手をいじめたい」とか「相手の不幸を願う」気持ちも起こらない。実感が伴わない。
人畜無害の気をかもし出しているのか、スーパーや道で、ものを尋ねられることが、とにかく多い。相方は私のことを「エンジェルせいちゃん」と言う。しかし、本当のエンジェルとは、清濁併せ持つ、包容力のある人のことである。私は、一部の負の感情を引き起こす機構を実装されずに生まれてきたみたいだ。でも、実装されると面倒くさそうだし、スズメとかテントウムシとかと同じ目線に立って遊べなくなりそうだから、このままの方がいい。楽しい。

「競争心」も、ピンとこない。
小学校の運動会の駆けっこで、スタートラインに並んで構える友人たちの中で、ただ一人、空をぼーっと見上げている私の写真が残っている。今でも、変わらない。こういう人間は「負けてくやしいでしょう」とか「勝ってうれしいでしょう」と言われても、他所事である。勝ったらスケッチブックをもらえるとか、宿題が免除になるとか、何か直接的間接的な特典が付くのなら、それはラッキーと思うかもしれないけれど、勝負自体には関心がない。
相方は「競争心がなければ発見なんてないし、人類進化しないよ」と言う。私は、速く進化するのではなく、ゆっくりと進化すると思う。競争心がなくても、発見も発明もできる、何かを創ること、1ツ事を突き詰めることは面白いから。私は、そう思う。

「大勢で食べる食事は美味しい」というのも分からない。大勢で食べようが一人で食べようが、美味しい料理は美味しい。逆に、誰かと一緒に食べると、会話や所作や嚥下に気を遣い過ぎて、味が分からなくなる。
入院していたときは、料理の味がよく分かったけれど、帰宅するなり、あまり分からなくなった。
恋人と一緒に映画を見たりお茶を飲んだりして、二人だからこそ楽しいって、どんな感情なんだろう。一人でも、二人でも、面白い映画は面白いし、美味しい珈琲は美味しい。駄作は駄作だし、まずいお茶はまずい。映画を観ている時に、隣席を意識することはないと思うんだけどなあ。
思えば、過去に交際してきた相手は、全て彼の方から申し込んできて、しばらく付き合って私が退散しているケースばかり。嫌いになったから別れるというのではなく、私が疲れきってしまうのだ。デートは楽しいと思うべきもの、「二人だと2倍楽しい」と思うべきもの、という義務感を持っていた。感情表出に責任感を感じていた。傍にいる間中、義務感と責任感が伴うのだから、疲れるのも当然だ。

持ちえない感情を持て、と強制されることは、暗闇の中で本を読め、というのと同じである。
あるいは感情自体は持っていても、それが薄ぼんやりとしたレベルでしかない場合、もっと強烈な感情があるはずだ、と言われても、困惑するばかりだ。
本当は、こう思っているんだろう?と、理解不能な感情をこじつけられて、隠すな表せ格好付けるな、と責め立てられると、冤罪を押し付けられているようで怖くなり、フリーズしてしまう。
それはまるで、下戸の人が頭痛を訴えたら、左党の人に「昨日はどこで飲んだんだ?」と、ありもしない飲酒を勘繰られて、詰め寄られているようなものである。

以前、私は、1個のメールアドレス(PROJECT KySSの代表メアド)を相方と共有していた。
私が上流工程を担当していたり、企画編集の経験がある関係で、相方と共同で受ける開発や執筆の業務窓口は、私が務めている。先方からのメールへの返信の本文は、通常、私が書く。
そういった仕事のメールであっても、それが共通の友人たちへのメールでも、技術系のメーリングリストに流すメールであっても、同じメアドを共有していた頃は、相方が、必ず内容をチェックしていた。
なぜなら、私の書くメールには、感情、特に負の感情がないからだ。相方曰く「もっと急かしたように書け」「これは怒るべきだろ」「文章が優し過ぎる」「こんなんじゃ相手にナメられる」
「私は、そんな感情持ってないのに、そんなこと考えてもないのに」と思いはするが、一回り以上長く生きている人の言うことは聞いた方がいいかもしれない、と、言われるがままに、表現を変えたり、加筆していた。
だけど、よくよく眺めてみれば、相方は、大きな負の感情が瞬時に湧き上がり、それを表に出すタイプである。
共同生活を始めて数年して、ようやく、「そんな感情を持ってはいけない、持つまいと思っても湧き上がってくるのなら、せめて一呼吸おいて考えて、どうしても言う必要があったら表に出すようにして」と、私が相方の袖を引っ張るぐらいでバランスがとれるのだと気付いた。複雑な感情を分かる者であっても、皆それぞれ生育環境や性格や価値観は違うのだから、必ずしも、相方が先方の感情を、正しく解釈しているとは限らない。ピント外れの解釈をしている場合だってあるかもしれないのだ。同じピント外れなら、善意に解釈した方が、角が立たない。

Microsoft MVPに選出された時、同じメアドだと事務連絡が不便なので、二人別のメアドを作った。その後、私は事業所名を変更して、新しいメアドも作った。
今は、個人のメアドから、自分の思うことだけを発信できる。分からない感情を知ろうとする努力は必要だとは思う。だが、分かりもしない感情を、メール本文に表現しなくていいので、気がラクである。

一応、自営で経済的に自立し、家事万能で、自己肯定感が揺るがない私は、社会適応できているけれど、それは、たゆまぬ努力の成果である。いや、社会適応するために努力したというのではないな。自分ひとりが社会適応して生きて行くだけなら、さほど努力しなくても問題なかったはずだ。若い時からずっと一家の大黒柱だったので、同じ年代の人が期待される数倍の出力結果を出さなければならず、人並み以上に努力せざるをえなかっただけだ。
生まれてこのかた、努力する立場から降りたことがなく、モラトリアム時代は1秒もなかったので、降りたいなあ、休みたいなあという気持ちが募り、辛くなるときもある。

それにしても、針の先ほどであっても、人間を理解するのは、難しい。

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