Archives > Essay(2003.3-2004.7)
仕事がら、人の話を聞くことは得意だ。
取材稿を書くにはインタビュー相手の話を、アートディレクションではクライアントさんの要望を聞くことが重要。さいきんは技術屋づいているが、これも、クライアントさんの要望をお伺いし、企画書や設計書を書くことから、すべてが始まる。これまで携わってきたどの仕事においても、自分の考えを話すより、まずは相手の言葉を聞くことが重要だった。
話すことも、得意ではないが苦手でもない。打合せや会議も、建設的な内容であれば、長時間だって平気だ。新しい知識や情報を交換し合うことは、有意義である。それが、実際の業務や成果に結びつけば、もうひとつ有意義である。
上記どちらにも共通するのは、相手が話してわたしが相槌を打つか、一人ずつ意見を述べたり議論をしたり提案をし合ったりという、話す側と聞く側の関係が、折り目正しく成立していることである。そういう関係であれば、わたしは、話し、聞き、理解し、判断する一連の作業が、嫌いではない。
だが、ひとたび仕事を離れると、関係が曖昧な状態での会話ばかりが耳につく。ここ数年、とくに、関係や意味の曖昧化に拍車がかかっているのではないだろうか。日常会話だけでなく、対話や討論であっても、「言葉」そのものによる会話が失われてきているように感じる。割り込んだり、大声で相手の声をかき消したり、騒いだり、雰囲気で共感をもとめたり、イメージで真意を想像させたり。論破するには内容よりも先ずは話し方。沈黙は金ではなくタダの「世渡り下手」。意見ひとつを聞いてもらうにも、自己PRが必要。誰もが、競うように、我も我もと声高に話し始める。まるで、自分以外の人の話す言葉には、聞く価値がない、とでもいわんばかりに。
冷静な意見、正直な心情の吐露は疎まれる。冷静さや正直さは、しばしば、会話する相手に事実を突きつける。事実を直視できる人は、事実を事実として示されても、感情を動かされることはない。怒らず、傷つかず、分析できる。だが、自分自身を見つめたくない人、自分自身を好きになれない人は、事実に傷つく。そして、オブラートにくるんだ真意の不透明な表現、うまく生きるための嘘、相手に傷を負わせかねないほどの過ぎた悪ふざけが、許容されるのである。
言語が、意志や情報を伝達したり確認し合ったり、共通の認識を築いたり、知恵を増すための道具ではなく、消耗品になっているように感じる。
書籍や記事やコピーの1フレーズを書くために、どんな言葉を選択し、どんな順番で組み合わせれば、読者に伝わるだろうか、あーでもないこーでもないとウンウン唸り、言葉を捻くり出している立場だから思うことなのかもしれないが、言葉とは、本当に難しく、重みがあり、捕まえようとすれば逃げる、とてつもなく手強いものである。気軽に使い捨ててよいような、軽いものではないはずだ。
わたしには、思考と発語の即時的な処理が要求される日常会話、とくに、条件分岐処理に満ちた世間話をする能力が著しく欠けている。だから、ひとたび技術やアートの話題から離れると、ジョークをとばすか、事務的な会話しかできない。だから、日常会話で、自然に、気の利いた言葉のキャッチボールをできる人をすばらしいと思う。
だが、単なる、価値も意義も包含しない饒舌には疑問を感じる。このまま言葉を軽視する状況が続くと、恐怖と粗雑さに満ちた暮らしが始まるのではないかという気がする。口から一方的に音を発することが「会話」なのではない。音の信号をとらえることが「傾聴」なのではない。「耳を澄ます」こと、「相手の話を気長に聞く」ことの重要性を、もはや学校で教えなければならない時代になっているのではないだろうか。
学校だけではない。いま高齢者のヘルパーを目指す人が増えているが、食事や入浴の介助などのような実務だけではなく、たとえば新聞記者などに講師を依頼して、高齢者の話を聞くことの重要性と、傾聴のノウハウを教えるべきだ。わたしの母は、公的なヘルパーを頼んでいるが、中には母の話を全く聞かず、一人舞台で自分の家庭内の愚痴をこぼす人がいたという。高齢者に話を聞いてもらうのではなく、高齢者の話にじっくり耳を傾ける技術を身につける教育も必要ではないだろうか。
高齢者介護という福祉に意欲のある大人にでさえ、そのような人がいるのだから、世間一般の大人に、子供の話を傾聴しない人が増えていても不思議ではない。子供が大人に対して相談を持ちかけたいとき、その内容は子供にとっては深刻なものである。当然、言葉をつむいで話し始めるまでには時間を要する。なのに大人は、子供が話し終えるのを待てないどころか、話し始めることさえ待てない。話を傾聴してくれない大人から、頭ごなしに個人的な考え(常識ではない)を押し付けられて、納得できるはずもない。わたしには子供はいないが、いまなお自分自身が年齢を重ねただけの子供であるので、「傾聴」という行為を軽んじる大人の行動が理解できない。
一生に87回しか見られない桜の花びらの散る音に耳を貸さず、大音量のカラオケ三昧の花見が一般的になり始めたことに愕然としてから10年足らずで、この国の騒々しさは、加速度を増してきた。川の流れる音を聞いて存在の理を知る行為が、無意味で許されざるものになったとき、文明は崩壊の音を立て始めるかもしれない。いや、何か全く新しい文明が、始まるとでもいうのだろうか。